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ポルシェ専門店,これが分かればポルシェパラノイア 993
2015.04.25

麦草峠開通式前日の4月22日(水)早朝からの資料を作り終え13時に901カレラと964カップ2台でムラタチューンを出発、上野までワゴン車が同行し930カレラが加わりワゴン車の荷物を移動、ポルシェのみ3台で14時扇橋インターチェンジから外郭環状線を経て上信越自動車道、南佐久インターチェンジへと順調な走行を続けました。

明日行われる麦草峠開通式々典について、17時から佐久穂町役場産業振興課 観光係で説明を受けハーモナイズに向かう途中の風景です。
満開の桜をパッセンジャーシートの菊池カメラマンがカメラに収めてくれました。

町の到る所に紅白の花桃が見受けられ、どれもが開花寸前の可憐さで3台のクラシックポルシェを出迎えてくれました。

麦草麦草




暮色、ハーモナイズの扉を開くと昨年11月にここで初めてお会いし、そのご縁で氷上トレーニングにご夫妻で訪ねて頂いた菊池さんがカウンターにいて、「お久しぶりです。その節は大変お世話になりました」からコーヒーをご馳走なり、話に花が咲きすっかり夢中になり、時計を見ると既に19時半を過ぎていました。
明日の昼食を予約して店を出ると桜が咲く頃の花冷えに加え標高が750m以上と高いため夜気に身が引き締まりました。

翌朝、風呂上がりの窓辺から眺めたポルシェです。
生産年度別に並べられた7台は既に出発の準備が整いました。

麦草麦草




武州街道に沿う山あい、桃の花が咲き始めた“里味の宿 臼石”の駐車場です。

「高校時代の運動部を思い出すなぁ」 と言いながら、4月11日(土)に富士スピードウェイ レーニングコースで開催されたスポルトファーシューレに参加したままのポルシェを洗車をしているところです。
こんなに汚れた車で、園児が70名以上も参加する晴れの式典に臨むなど論外と一蹴され、若かりし頃の淡い思いの感想でしょう。

ともかくも本来の美しさを取り戻した987です。

麦草麦草




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ポルシェ専門店,これが分かればポルシェパラノイア 992
2015.04.24

昨年11月中旬、諏訪で開催された研修会に出席した後、冬季閉鎖1週間前の麦草峠を越え、佐久穂町を訪れました。
それから5ヶ月、春の訪れが遅い信州もようやく桜が咲き初め、いつもお世話になる佐久穂町のフレンチレストラン ハーモナイズ 周辺は丁度見頃をむかえていました。

連日降り続いた菜種梅雨も上がり2日目の好天、爽やかな5月の陽気の昨日4月23日(水)、国道として日本で2番目に高い場所にある麦草峠で30回目の開通式が開催されました。
参加のきっかけは11月に佐久穂町役場を訪れた際、話があり歴代のポルシェ7台で参加しました。73年の901Sを先頭に930カレラ、964カップ、993GT2と空冷のポルシェの後に水冷が連なっての式典への参加です。

麦草麦草




あどけない園児たちが佐久側の佐久穂町と小海町から55名、諏訪側からは茅野市から18名、合計73名の年長組が晴れ渡った麦草峠にバスに乗って集合しました。
10時に式典が開始し、関係者、来賓の挨拶の後、通行開始のテープカットです。

麦草麦草


3.2,1
司会者の声に合わせ金色のくす玉が開き、七色のテープが春風にそよぎました。
参列者全員の盛大な拍手が澄み切った空の大自然に吸い込まれる中、国道299号線、佐久平と諏訪盆地を結ぶメルヘン街道の2015年供用が開始されました。

ご当地のゆるキャラ、諏訪から園児と麦草峠に登ってきた写真左“ちーぼ”です。
名前の由来は「茅野市の坊や」でトレードマークは“わんぱくの証”の絆創膏と、ふるさとの八ヶ岳をイメージしたトンガリ頭で、世界中の子ども達と友達になるのが夢だそうです。
一方小海町の“プティリッツァ”は伝説の森の妖精で、豊かな自然環境と生命を大切にする温かい心のある土地にしか住めないと言われているそうです。

麦草麦草


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ポルシェ専門店,これが分かればポルシェパラノイア 991
2015.04.21

先月3月中旬、新車デミオディーゼルの馴らし運転を兼ね東名自動車道を西に向い、開祖1,200年を迎える前の高野山に参詣した後、大阪まで行ってきました。
薄曇り空の先週末、桜前線を追って今度は東北自動車道を北上の旅に出ました。
使用した車は993カレラの新車?です。
などと書きながら何故か、わくわく楽しくなります。

走行車線から追い越し車線まで大型トラックが100kmで走る3車線も、宇都宮インターチェンジを通過する頃から交通量は格段に少なくなり、快適な走りを楽しむことができました。
左の車窓には雪を頂く吾妻山を眺める福島県吾妻パーキング付近も華やかに咲き誇る満開の桜が楽しめました。
今回の旅の第一の目的は桜前線を追って東北自動車道を北上することでしたが、前半の目的地八戸市内も咲き始めていて、翌日青森市内に入りましたが既に開花していて、全線を通し開花が見れれなかったのは盛岡インターチェンジから北、八戸自動車道の軽米付近までと、標高の高い所でした。
全般に今年の開花が例年より早くゴールデンウィーク前に弘前城の桜も満開を迎えるのでしょう。

青森青森




東北自動車道八戸道の終点から種差海岸方面に向い新井田川の橋を渡り、すぐ左折して陸奥湊駅前に出ました。
つい1年少し前まで贔屓にしていた地の鮮魚を食べさせてくれる大洋食堂も、その真ん前にあった蛸の問屋も久しぶりに訪ねると店を閉めていました。高齢化をむかえ世代交代を果たせず閉店したのでしょうか。
仕方なく150mほど先のみなと食堂を訪ね遅い昼食に舌鼓、ウニ、かに、イクラ、ホタテがのった四合わせ丼、みず蛸、つぶ貝の刺身、うに、アワビのすまし汁のいちご煮、ポルシェを同行のためビールが飲めないのは致し仕方なし。
しめて4千円と奢ってしまいました。

それからは先は冬の名残が濃い八甲田山に十和田から入りました。

青森青森




蔦温泉から先のブナの樹林に入ると6mもあろうかと思われる見上げる高さの積雪が圧巻です。
いつもは蔦温泉に投宿するのですが、25日(土)まで休館で風呂は利用できるそうですが、ドライバーが燃料切れでしたから、仕方なし風呂はあきらめ1,040mの笠松峠を目指し雪の回廊をひたすら登ります。

青森青森



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ポルシェ専門店,これが分かればポルシェパラノイア 990
2015.04.14

2015年度ポルシェクラブ六本木主催の第1回スポルトファーシューレが先週末土曜日に富士スピードウェイのレーシングコースで開催されました。
催花雨、4月の季語に合わせたかのように早朝から粉糠雨が降り初めました。
いつものことながらスポルトファーシューレ開催日の1週間前から天気が気掛かりで、日に何回か予報を見てきましたが2日前の予報では土曜日は雨でしたが、昨日の予報で東京は午後から天気は回復すると微妙に変わりました。
御殿場は東京より西で天気の回復は東京より早いであろう?・・・
しかし、富士山の麓で気流が不安定だからと・・・

好天を望み気をもむ数日間は皆さん同じ心境でしょう。


富士スピードウェイ
富士スピードウェイ




相変わらず霧のような雨が降り続き、コートを着て丁度の気温です。
ポルシェクラブ六本木が開催するスポルトファーシューレは常にサーキットデビューをする初参加者のフォローを最優先し、モータースポーツの楽しさを安全に知ってもらうため、津々見校長先生のブリーフィングを重視しています。

慣熟走行では参加者数に応じて幾つかにグループ分けをし、サーキットデビューのポルシェ乗りは最後尾から津々見校長先生の先導でスタートします。
今回の先導車はフォードフォーカスで校長先生がいつも通り担当されました。

富士スピードウェイ富士スピードウェイ




早朝からの霧雨で11時からの第1回目の走行はウェットで気温も低く、慎重な走行に終始しました。

12時から1時間の休憩時間を利用して、東京から運んだ弁当で昼食を済ませると瞬く間に2回目のスタート時間13時となります。
薄日が差し気温が上昇すると路面は急速にドライに変わりました。
慎重さが希薄になった間隙を見計らうように初心者マークの黄色いストライブをリアウィンドーに貼った964カレラ2が100R最終コーナーでスピン!!

体験は素晴らしい実証です。
3ヶ月前に八千穂レイクで開催されたウィンタートレーニングに参加していましたから、スピンをした弾みで左後輪をダートに落としただけで悪魔の口元から難を逃れました。
ピットインに戻り、念のための車両点検です。
ジャッキアップした宝物の964の下廻りを見るのはトヨタ東富士研究所の小宮山 泰央チームリーダーです。
いつもの笑顔が頼もしく、そして素晴らしいです。

930カレラはエンジン、ミッション、足廻り、4,000回転で5,000kmの馴らし運転を済ませ、最後の2時間高速テスト走行で付加を掛け不具合箇所のチェックを実施しました。

セオリー通り・・・  やはり出ました。
オルタネーターは未交換だったためベアリングが焼き付きを起しファンベルトが切れてしまいました。

織りこみ済みとは云え、切り詰めた予算と少しでも安くとの思いで、約17万円を惜しんだ狭間を見透かすように発生した事象です。

富士スピードウェイ富士スピードウェイ



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ポルシェ専門店,これが分かればポルシェパラノイア 989
2015.04.11

ポルシェクラブ六本木第27回年次総会3日後、車で旅に出ました。
会員がベンツ並エンジンの素晴らしさに惚れ込み購入してから5日目でオドメーターは80km、車種はマツダデミオディーゼルで新車独特の臭いがするパッセンジャーシートに身をゆだね一路西へ試運転を兼ね向かうことにしました。
共に昨夜3時間の睡眠でしたが、車好きの男二人旅、寝不足も何のその朝5時に東京を出発し、新東名高速道路から東名阪高速道路に入り、四日市、鈴鹿を通過、久居インターチェンジまでひた走りに走りました。
目的地まではあと90km、約束の13時まで4時間、余裕があると踏んだのですが ~・・・
その先一般道はほぼ全行程追い越し禁止、国道165号線初瀬街道をひたすら西進、名張市から伊賀忍者修行の地赤目に至り、神武天皇が大和の国を建国した橿原市を経て、大和高田市、御所市から紀ノ川添いの橋本市まで遵法速度以下で南下を続けました。

橋本橋で紀ノ川を渡り「高野七口」といわれる7本の高野山への参道のひとつ黒河口(大和口)から、この4月2日開創1,200年を迎える前の真言宗の聖地、高野山金剛峯寺に向かいました。
弘法大師空海が818年(弘仁9年)に創建した金剛峯寺と116の寺院、その52が宿坊寺院で標高800mの極小さい盆地にあり、周囲は急峻な谷にも関わらず人口は3,300人の仏教都市と知り驚きました。

黒河口と正反対の高野山西端の入口で屹然と存在感を示す高野山総門です。1688年(元禄元年)消失した後、1705年(宝永二年)に再建され1982年(昭和57年)から3年かけ解体修理したと案内板に書かれていました。

鐘楼からの孔雀堂、准胝堂、御影堂、根本大塔を臨みました。
これらの伽藍は長い歴史の中で何回も炎上消失を繰り返し再建されているようです。

大阪大阪



御影堂は1843年(天保14年)宝蔵の軒下から出火した火災で類焼し1848(嘉永元年)、紀伊大納言(徳川家康の十男で、紀州徳川の祖)が一千両を寄進して再建されたものと伝えられています。
焼失記録としては、1521(永正18年)・1630年(寛永7年)・1843年(天保14年)とされていますが、重要な建物という意識があったためか、諸堂に比べ焼失した回数は少ないようです。信憑のほどは定かではありませんが、1926年(昭和元年)金堂が炎上したおり、御影堂の壁に味噌を塗って防いだと記憶にあります。(高野山御影堂のホームページより)

一千両を寄進しての再建は現在の貨幣価値で幾らなのか。
江戸時代のタクシー、駕籠代が日本橋から色街吉原まで200文(1文=16円50銭)で3,300円、江戸から大阪まで約25日かかる飛脚便が30文(495円)、今で言えば2~3日で届く速達便は約4倍の124文(2,046円)として換算すると寄進した1千両は6千600万円となります。
大工の手間賃は日当銀6匁で、6,600円と現在に比べ大分安い気がしますから、再建費用は思いのほか安くい1千両で再建できたのでしょう。
因みに3日目前の3月14日(土)ポルシェクラブ六本木第27回年次総会開催日に開通した北陸新幹線の金沢から江戸の参勤交代の費用は三千両、御影堂再建費の約3倍で1億9千800万円だそうです。
グッと庶民的に浮世絵は1枚32文528円でした。

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金剛峰寺表門から参詣し、境内左の西端に887年(仁和3年)建立後、五度の消失と再建を繰り返し、現存する西塔は1834年(天保5年)に再建され、高さは27.27mのエキゾチックな雰囲気を感じさせる塔頭です。

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室町時代中期には参詣に使われていた高野山に至る高野七口のひとつ黒河口は、この時代から80余年後に時の最高権力者が高野山から馬で逃げ帰ったとあるそうです。
最高権力者とは、太閤豊臣秀吉のことで、1594年文禄3年3月3日に入山し、歌舞音曲を禁じている山上において同月6日能楽を催し、そのためか辺りが暗くなり、豪雨と共に雷鳴が轟き恐れおののいた太閤秀吉は、馬に乗り、千手院口から粉撞峠を経て清水まで黒河口を駆け下りたという話が残っているそうです。

現在の黒河口です。
デミオなら通行できる程の幅員しかなく簡易舗装がされていますが、対向車に出会うと、どちらかが待つか待避場所までバックすることとなります。
幸い途中、軽トラックとデミオ級の車2台 とすれ違っただけですみました。 
それは平日だったからでしょうか。 
 
宿泊した宿坊のすく近くにある土産屋で買い物をしながらの雑談で店のおばさんに「エェあの道できたの」と言われ変に納得しました。
 
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